絵本の世界に連れて行ってくれる音楽
少し前に出会った「ヘクとパスカル」というバンド。
映画監督の岩井俊二さんが主催しているということで、ピアノと、ちょっと切なくてハスキーなボーカルがリバーブたっぷりに響く、ロマンチックな世界観が全開な音を奏でている。
一人の部屋で、ろうそくの火を見つめながら聴いていたい。(個人の見解です)
現実の世界を全て切り離して、どこか別の、パステルカラーの世界(どこだw)に連れていってくれるほどの引力がある音楽だ。
そんな「この世ではないどこか」に連れて行ってくれるそんな音楽がとても好きなので、つい踊りたくなってしまった。
歌詞の内容的には大人向け(エロいという意味ではない)だけど、絵本のように語りかけてくるような歌い方だったから、
自分も絵本の世界の人物になったつもりで踊りを作ってみた。
お芝居の要素も入れつつ、優しくて、柔らかい世界を作ろうとやってみた。
だけど、なかなか、曲を聴いて想像した世界を作るのは難しい。
実際に完成した映像を見てみると、
「ここで出したかった感じが出てないなー」と思うシーンが多々あった。
もっと表現力を磨いて、作りたいものを作れるようになりたい!!
#ダンス #音楽
「生きるのが辛い」と言っても良かったんだ
芸術や表現の活動をしている人にとって、この世の中はなかなか大変なところだと思う。
好きなことだけやりたい。
好きなこと以外はやりたくない。
だけど好きなことじゃ、なかなかお金は稼げない。
普通の仕事をしていたら、「普通に」やってるだけでお金は入ってくるし、ある程度のステップアップもできる。
でも表現は「普通に」やってるだけじゃ、お金も立場も手に入らない。
だけど「やらなければならないこと」に追われている間に、どんどんと時間は過ぎていく。
自分にとって本当に大切なことができないまま過ぎていった時間の後には、後悔しか残らない。
私は長年、そんなドツボにハマってずっと鬱になっていた。
不完全燃焼な自分を抱えたまま、自分を何も表現できないまま、気が乗らない仕事にズルズルと向かうだけの日々をずっと過ごしていた。
今は少しだけ、生きるのが楽になった気もするけれど、10代、20代はずっとくすぶっていた。
***
勝友美さんという人のYoutubeをよく見ている。
ジャンル的には自己啓発。
勝さんはRe.museというオーダーメイドスーツ店の女社長だ。
スラっとっした体型に、ピタッとしたスーツがバリバリに決まっている、見るからにデキル女という感じの風貌。
コネも資金もない所から20代でたった一人で会社を興して、相当な苦労もしながらも、現在は下火になっていっているオーダーメイドスーツ業界の中でも順調に売り上げを伸ばし、ミラノコレクションやパリコレクションにも出場している。
ほとばしる情熱と、男性にも負けない胆力で掴んできた成功。
そんな勝さんのYoutubeチャンネルで、「一人の女性の人生を変える」というドキュメンタリー番組が始まった。
今回その企画に参加している女性は、歌手として活動する場所を求めている保育士さん。
保育士の仕事も、成り行きで選んだだけで、特に好きでやっている訳ではない。やりたい歌手活動も中途半端になってしまっている。
「『自分はこんな活動をしている』と胸を張れることがしたい」と言っている。
色々と、自分と重なるものを感じた。
そんな彼女の話を聞いて、勝さんは「今、生きること自体が辛い状態なんだと思う」と言っていた。
てっきり「甘えている」の一言でバッサリかと思ったけれど。
そうか、生きていること自体が辛そうに見えるのか。
そうかも知れないな。
好きなことを押し殺して、好きじゃない仕事をする。
そんなの、当たり前のことで、みんながやっていることだ。
何か特別なことをしている訳でもない。
みんなと同じように普通にやっているだけ。
それなのに辛いんかった。
当たり前のことをやっているだけなんだから、「辛い」なんてことはあり得ないと思っていた。
だけど、当たり前のことだったとしても、自分が辛かったら「辛い」でいいんだ。
20代までの私も、素直に「辛い」と言えば良かったのかも知れない。
「自分は幸せだ」
「自分は普通に生活できているんだから、これでいい」
と思い込もうとしていた。
本当はその普通が、一番辛いことだったんだな。
って、今だったら受け止められる。
『VICTORY GIRL』というこちらの番組。
これから成長していく人たちと自分を重ねて、色々と勇気が貰えるのでおすすめです。
#好きなことで生きていく
心の中にある、自分だけの世界
ちょっとフワッとした話。
私には、自分の心の中にずっとある大切にしたい世界がある。
その世界で感じた、あったかいような、切ないような、なんとも言えない感情を表現したくて、私は踊ったり歌ったり文章を書いたり、色々な表現活動をしているのだ。
踊ることも歌うことも大好きだ。
だけど、「踊ること」「歌うこと」「書くこと」それ自体が生きる目的ではない気がする。何をしていても、自分の人生の軸は「心の中の世界」だ。
「心の中の世界」には、日常生活の中でふとした瞬間にアクセスすることができる。
だいたいが散歩してる時だけど、スーパーで買い物している時とか、
知らない街の風景に溶け込む夕焼けのオレンジ色を感じた時、夜中の真っ暗な道をお気に入りの音楽を聴きながら歩いている時などだ。
大学では演劇サークルに入っていたのだけど、そこでの先輩も同じようなことを言っていた。
「心の中でずっと見ている風景があって、その世界をお芝居にしたい」
「この人も同じなんだ」と思った。
この先輩だけでなく、みんなみんな誰だって、心の中に自分だけの世界を持ってるのかも知れない。
私が「心の中の世界」と繋がっている時、何か具体的な風景を見ている訳ではない。
ただ「そこにいる時の感覚」に包まれる。
いくらどっぷりとネガティブの中に使っていたとしても、その世界のことを思えば自分が何のために生きているのかを思い出すことができる。
生きている限り、ずっとこの感覚を大切にしていきたい。
#自分の人生を生きる
自分の生き方が不安でしかない
今日のブログは、ちょっと恥ずかしい話。
昨日、おとといと、私はとてつもない不安に襲われていた。
このブログを書いている今から思うと、この2日間はいつもの場所で、いつもの生活を送りながら、遠くに旅をしてきたみいな感覚だ。
何か特別な出来事が起こった訳ではない。
ただ漠然と自分の内側から、日ごろ抑え込んでいるネガティブの波が、じわーっとっと染み出てきて体中を蝕んでいくような、そんな感覚だった。
・私の人生、このままでいいんだろうか?
・ずっとこのまま「負け組」のままなんじゃないだろうか。
・「好きなことをやる」と意気込んでいる割にちっとも前に進んでいない。
・失敗した時の安全策として、キャリアを積んでおくとか、資格を取っておくとかいったこともしていない。
・周囲に信頼できる人もいない。人を避けて生きてきたから、ずっと孤独なままだ。
自分の生き方に、全く自信が持てない。
常に自分が後ろめたい存在であるような、そんな感覚がつきまとう。
普段は何食わぬ顔をして生きているが、ふとした瞬間にボロが出てしまう。
歌うことも、踊ることも、文章を書くことも大好きだ。
それで稼げなかったとしても、ずっと続けていきたい。
それは10代後半から20代半ばまで長いこと「好きなことをやる」ということを封印して生きてきて、人生どうにも行き詰ってしまったからこそ思うことだ。
それらが私にとって、必要不可欠だったのだということは、身に染みて実感している。
だからやっぱり好きなことを辞める、という選択肢はない。
だけど現実は、日々の支払いにも事欠くほど金欠の状態で、今月支払うお金を確保するのにもヒイヒイ喘いでいる状態。
貯金だってろくにしていない。
キャリアもない。
別に欲しいと思ったことなんてなかったけれど、少しくらい意識しておいた方が良かったかしら。
新卒で入った会社を辞めて5年。
友達との時間とか、お金とか、何もかも捨ててやってきたはずなのに、ちっとも前に進んでいない。
5年という年月を改めて突きつけてみると、自分が失ってきたものの大きさに呆然とする。
自分は本当、何をやってきたんだろう。
こんな中途半端な精神で、それでも好きなことをやるだなんて、ちゃんちゃらおかしい。
私の人生は「表現活動がしたい」という欲望にだけフォーカスが当たっていて、他のことは全てないがしろにされている。
受験に例えれば、滑り止めを考えず、第一志望だけ受験するようなもの。
うまくいけばいいけれど、うまくいかなかったら、何も得ることができない。
「第一志望しか受けない」ということは、「失敗はあり得ない」という道を選択したということだ。
それにも関わらず
結局私の状況が変わっていなかったり、この手の不安に押しつぶされてしまったりしてるのは、
好きなことに全力で立ち向かっていないから。
退路は断ってるんだから、あとはその道で幸せになるしか道は残っていないじゃないか。
そのために、今は目の前にあることをとにかく一生懸命やる。
好きなことも、好きじゃないことも。
あとは、自分が望むものを本気で取りに行くことだ。
やりたいこと、人間関係、色々な面で、自分から手を伸ばしにいくことをしないといけない。
今までの私は、自分で自分を前に進めて、望む方向に向かって行くということをしていなかった。
怖いこともたくさんあるけれど、それ以上に希望の方が大きいと感じられる。
ヘタに「大きな成功」を夢見るのではなく、自分にできる表現を日々行っていくということを大切に生きていく。
毎日、自分の好きな世界の方を向いて、じっくりと味わいながら、楽しみながら生きていく。
*********
絶望的な気分から心が回復し始めた昨晩、ファミレスに籠って作業を終わらせた後は、火照った頭を沈めるために、2時間かけて歩いて家に帰った。
夜の散歩は大好きだ。
感覚が研ぎ澄まされて、切なさとか、じんわりとした喜びとか、そういった心の奥底から染み出てくるようななんとも言えない感覚を味わうことができる。
お供はこちらのアルバム。
包み込むような、深くて可憐な声とピアノの音色。
パステルカラーの絵本のような世界観に思う存分浸った。
素敵な音楽を聴いて、やっぱり改めて私も、心の中で感じた色々な世界を表現したいと思った。
「生まれ方」に性格が表れる
私は元来、臆病者だ。
とんだビビリ野郎だ。
そしてこの臆病は生まれつきだ。
ところで、恐怖の対象が目の前に現れた時、人が取る行動の選択肢は主に3つある。
逃げるか、戦うか、固まるか、だ。
勇敢な人は戦うし、「生き延びたい」という思いが強ければ逃げることを選ぶだろう。
「固まる」は、一番臆病な奴のすることだと思う。
恐ろしいものを目の前にして恐怖に全身を支配され、自分の身体を1ミリたりとも動かすことができない。
例えばもし山奥で大きな熊にでも遭遇したなら、私はぎゅっと目をつぶって、襲われるのを受け入れてしまうと思う。
逃げ出すことは、できない。
逃げている最中に感じるであろう恐怖感に、耐えられないからだ。
本気で走ればもしかしたら逃げられるかもしれないけれど
その逃げている間はずっと「捕まるかもっ…!」と思いながら走らなければいけないのだ。
生きるか死ぬか分からないギリギリのところを走り続ける。
しかもその明暗は己の脚にかかっている。
自分一人の命といえど、相当なプレッシャーだ。
やっぱり私には耐えられそうにない。
そんな私の臆病な性格は、生まれつきのものだ。
それは私が生まれた時の様子に、如実に表れていると思う。
そもそも、お腹の中にいた赤ちゃんが、生まれてくるということはなかなかの恐怖を伴うことだと思っている。
お母さんのお腹の中はきっと温度も快適で、自分で何かをすることもなく、へその緒から酸素や栄養が運ばれてくるから、赤ちゃんはただ、ぷかぷかと浮かんでいればそれで良かった。
ところが生まれてくるとなると、そうはいかない。
安らかな空間の外では、自分で肺に空気を取り込まないと生きていけない。
初めて空気を吸う時って、どんな感じだろう。
冷たい針が自分の胸に刺さったような感じがするんじゃないかな。
忘れちゃったけど。
臆病な私は、生まれた時に産声をあげなかったそうだ。
産声は普通、肺に空気が入った時の刺激であがるものらしい。
本当のところはどうなのか分からないけれど、私はきっと息を吸うのが怖かったんだと思う。
だからずっと体を固めて、自分の細胞ひとつたりとも動かさないようにして、身を守ろうとしたのではないか。
こんな風に感じるのは、大人になった今でもその感覚に身に覚えがあるからだ。
「怖い」と感じると、どうしても体にぐっと力が入り、頭が真っ白になって身動きが取れない。
誕生時には、助産師さんが、出てきたばかりの私を逆さまにして、お尻をバンバン叩いてようやく、私は泣くことができた。
おかげで私は今、こうして息をして、ブログを書いている。
新しいことに色々とチャレンジしてみたいけれど、なかなか怖くて足がすくんでしまう場面も多い。
「ただ、ここに存在しているだけで怖い」と感じてしまうことも多々ある。
だけど、人より時間がかかっても、少しずつ前に進めてるのも確かだ。
「もっと潔く生きろ」「さっさと行動に移せ」と、自分で自分のお尻をバンバン叩くことも大事だけど、
心の中の、どこか別の場所で
「私は生まれつきのビビリだもんね」と優しく受け入れてあげる必要もあるのかな、なんて思う今日この頃だ。
散歩中に見つけたヘンな物体
落ち着きのない性格だからか、ちょっと時間ができると、いや、やらなければいけないことに追われている時でさえも、いや、そんな時こそ、ついつい外を歩きたくなってしまう。
意識せずとも、散歩が日課になってしまった。
私に命がある限り、私はその辺をウロつき続けるだろう。
これは私の人生における格言だ。
そんな趣味とも日課とも人生の全てとも言える散歩をしていたらこの前、コンビニの前にヘンなものを見つけた。
「ヘンなものとは何だ」と思われるかもしれないけれど、ヘンなものはヘンなものだ。
あまりにも訳が分からないので、「ヘンなもの」としか言いようがない。
その物体に「つくえ」とか「みかん」のような、名称がついていないことは確かなのだけど、もしそれに名前がついているのなら、ぜひとも聞いてみたい。
それを知ったところで、何かの役に立つことは一切ないのは明らかだ。
けれど、その名を明かされた後には「ふーん」くらいの相づちは出てきそうだし、その「ふーん」でもって、これまでの人生で溜めてきた「小さなモヤモヤ」に新たな一滴を投じることは回避できそうだ。
その物体が初めて視界に入り込んだ時、その日常生活においてあまり見かけない形状と、奇妙な素材の組み合わせに一瞬「おや?」と思った。
スタスタと程よいスピードで歩いていたところだったが、脳が即座にひとこと「戻れ」と命じた。
私は脳の命令に従ってクルっとターンし、立ち止まって、上からその物体を観察してみた。
それはズバリ3本のアイスの棒に、黒い毛糸が巻きついたものだった。
(本当にそのまんまでございます。。。)
アイスの棒3本が「*」の形に重なり、
その棒の前後を這うように毛糸が巻きつかれていて、クモの巣のような形をつくっていた。
クモの巣の一角からは、毛糸のはしっこがびよんと伸びている。
以上。これが、「例の物体」の全容だ。
これがコンビニの前の道端に、無造作に投げ捨てられていたのだ。
一体誰が、何の目的で……?
頭の中に、どこからともなく名探偵が出現した。
一体誰が、なんのためにこんなものを作り、そしてこのコンビニの前に葬ったのだろう?
偶然にも落ちてしまったのだろうか、それとも誰かが何かの意図を込めて置いたものなのだろうか?
だとすれば、そこにはどのようなメッセージが込められているのか……
しかし考えたところで、目の前にはアイスの棒に毛糸が巻きついた、ヘンな物体があるのみ。
あまりにも手がかりが少なすぎる。
うーん……
「これは今後何世紀にもわたって残り続けるであろう、難問だ」
頭の中の名探偵は、そう結論づけた。
私も同じ意見だった。
考えても分からないし、ちょっと面白かったけど、どうせ何の役にも立たないし、もうどうでもよくなったので、私はその物体の正体を迷宮入りとし、その場を立ち去ったである。
名探偵もいつの間にか、どこかに行ってしまったようだ。
気をぬくとすぐに思いこみにのまれてしまう
おはようございます!
今日から3日間、またイベントのバイトに行ってきます!
中々のハードスケジュール…
でも駅までの歩く道のりの風景が綺麗だったから、ちょっと和みました。
何をみても見慣れない景色だから楽しいです。
時々それが不安に繋がることもあるけれど…
昨日は、ダンス作品の振り付け中続きを行いました。
もう2ヶ月以上取り組んでいるのに、中々完成しない…
曲は4分くらいの一般的な長さだから特別長い訳でも無いのに、なかなか「ピッタリ来る」振り付けが浮かばないんです。
そしてだんだん取り組むのが嫌になってきたりして…
それでも、と思い腰を上げて音楽をかけ始めたら、急に思いつきました。
あれ、別に途中までで良くない!?
そうです。
1曲まるまるやらないといけないなんて、誰かに強制された訳ではありません。
それをやらないと逮捕される訳でも死ぬ訳でもない。誰にも迷惑がかからない。
ただ、自分の作品の尺が短くなるだけ。
それだけのことです。
なのにまた、いつの間にか
「きちんとやらないとダメだ」
って思い込んでいました。
この思いこみで2ヶ月分遠回りした気がします。
まあ、それに気がつけたから、良いでしょう!
もっと不真面目に!?生きて行きたいですね。