「生まれ方」に性格が表れる
私は元来、臆病者だ。
とんだビビリ野郎だ。
そしてこの臆病は生まれつきだ。
ところで、恐怖の対象が目の前に現れた時、人が取る行動の選択肢は主に3つある。
逃げるか、戦うか、固まるか、だ。
勇敢な人は戦うし、「生き延びたい」という思いが強ければ逃げることを選ぶだろう。
「固まる」は、一番臆病な奴のすることだと思う。
恐ろしいものを目の前にして恐怖に全身を支配され、自分の身体を1ミリたりとも動かすことができない。
例えばもし山奥で大きな熊にでも遭遇したなら、私はぎゅっと目をつぶって、襲われるのを受け入れてしまうと思う。
逃げ出すことは、できない。
逃げている最中に感じるであろう恐怖感に、耐えられないからだ。
本気で走ればもしかしたら逃げられるかもしれないけれど
その逃げている間はずっと「捕まるかもっ…!」と思いながら走らなければいけないのだ。
生きるか死ぬか分からないギリギリのところを走り続ける。
しかもその明暗は己の脚にかかっている。
自分一人の命といえど、相当なプレッシャーだ。
やっぱり私には耐えられそうにない。
そんな私の臆病な性格は、生まれつきのものだ。
それは私が生まれた時の様子に、如実に表れていると思う。
そもそも、お腹の中にいた赤ちゃんが、生まれてくるということはなかなかの恐怖を伴うことだと思っている。
お母さんのお腹の中はきっと温度も快適で、自分で何かをすることもなく、へその緒から酸素や栄養が運ばれてくるから、赤ちゃんはただ、ぷかぷかと浮かんでいればそれで良かった。
ところが生まれてくるとなると、そうはいかない。
安らかな空間の外では、自分で肺に空気を取り込まないと生きていけない。
初めて空気を吸う時って、どんな感じだろう。
冷たい針が自分の胸に刺さったような感じがするんじゃないかな。
忘れちゃったけど。
臆病な私は、生まれた時に産声をあげなかったそうだ。
産声は普通、肺に空気が入った時の刺激であがるものらしい。
本当のところはどうなのか分からないけれど、私はきっと息を吸うのが怖かったんだと思う。
だからずっと体を固めて、自分の細胞ひとつたりとも動かさないようにして、身を守ろうとしたのではないか。
こんな風に感じるのは、大人になった今でもその感覚に身に覚えがあるからだ。
「怖い」と感じると、どうしても体にぐっと力が入り、頭が真っ白になって身動きが取れない。
誕生時には、助産師さんが、出てきたばかりの私を逆さまにして、お尻をバンバン叩いてようやく、私は泣くことができた。
おかげで私は今、こうして息をして、ブログを書いている。
新しいことに色々とチャレンジしてみたいけれど、なかなか怖くて足がすくんでしまう場面も多い。
「ただ、ここに存在しているだけで怖い」と感じてしまうことも多々ある。
だけど、人より時間がかかっても、少しずつ前に進めてるのも確かだ。
「もっと潔く生きろ」「さっさと行動に移せ」と、自分で自分のお尻をバンバン叩くことも大事だけど、
心の中の、どこか別の場所で
「私は生まれつきのビビリだもんね」と優しく受け入れてあげる必要もあるのかな、なんて思う今日この頃だ。