「食べ過ぎ」に挑む
ここ1週間、半断食というものに挑戦していた。
食べ物を一切口にしない断食なのではなく
・玄米ごはん
・けんちん汁
・おかず少々
のセットを1日2食、100回噛んで(これが大事!)食べるというものだ。
2月末から低血糖症、冷え性、肌荒れなどの不調を改善するために玄米菜食を始めたのだけど、今回の断食はその強化バージョンといったところかも知れない。
明確な目標がある訳ではなく、なんとなく「効くかな」と思ってはじめてみた。
一番実感できた変化は「食への欲望が軽減された」ということだ。
綺麗で美味しそうなケーキや珍しい料理の写真なんかを見かけると、なんとなく「食べたい」と思ってしまう。
ネットが発達した現代なら、そういう情報にはいくらでもアクセスできるだろう。
でもその「食べたい」は、目で見て脳が思い込んだ「食べたい」だ。
純粋に身体が欲しているものじゃない。
身体が欲しているものであれば、それを食べればきちんと満たされることができる。
でも脳が食べたがっているものを食べても、その先にあるのは満足ではなく「もっと欲しい」という膨らむばかりの〈欲望〉だ。
私が人一倍食い意地が張っているからかも知れないけれど、
例えばずっと食べてみたかった「中華食堂A」の餃子定食が食べられたとして、食べ終えて店を跡にするとき「ああ美味しかった」と満足するというよりかは「次はあそこのチャーハンセットが食べたい」と次なる欲望に絡めとられた状態にいることの方が多かった。
やっとのことで食べる機会を得られた餃子(大げさだけど)は、たいして有難がられることもなくチャーハンの陰へと消えていく。これはあんまりじゃないか。
私は人一倍食い意地が張っているから、一度ねらいを定めた獲物は口に入れるまで脳内に留めておく。洗い物をしている時、仕事の合間、ふとした時にそのチャーハンの存在を頭に浮かべて物思いに耽ってしまうのである。
チャーハン一皿だけでは済まない、そんな脳内の獲物たちが私にはいくつもある。
「あれも食べたい」「これも食べたい」と頭の中が常にフル稼働していて毎日非常に忙しいのだ。
でも人間の胃袋の中に入る食べ物の量なんてたかが知れている。
人一倍食い意地の張っている人間の胃袋にも、限度というものは存在するのだから、食べれば食べるほど膨らむ「もっと欲しい」という思いには付き合いきれないのだ。
食べることができれば幸せになるはずなのに、食べても食べても満たされないなんて、不幸以外の何物でもない。それはきっと欲望にとりつかれて脳がバカになっている状態だ。
そんなパンパンに膨らんだ欲望は、玄米とけんちん汁で思いのほかあっという間に収まった。
食べるものが決まっているから、献立を考える必要もない。
時間が来たら作り置きしていたものを冷蔵庫から取り出して温めるだけである。
しかもその玄米ご飯とけんちん汁が、すごくおいしいのだ。
玄米は好き嫌いが分かれるが、個人的にはプチプチとした触感や噛めば噛むほど出てくる甘みが好きで、100回と言わず永遠に噛み続けていたいと思うほどだ。
けんちん汁だって、本当にたくさんの具材を煮詰め、2種類の味噌を混ぜ合わせて作ってあるので素材の味がとろけて混ざり合っていて、本当においしい。作るのに手間はかかるけれど毎日食べたいと思えるものだった。
だから、一見すると修行僧のようなもはや神聖さすら感じられるほどの粗食であっても、私には十分だった。
むしろごちそうでもない地味なごはんだから続いたのかも知れない。
ただ、量的な面では食べ過ぎてしまうことがあった。
1日に2合食べる日もあった。さすがにその日はお腹が苦しかった。
おかずよりもご飯を多く食べる、という決まりがあったのは確かだけど、これは明らかに食べ過ぎだと感じた。
そんなこんなで、今後も玄米ごはんを多めに、もう少しバラエティー豊かなおかずと一緒に食べていく食生活にしていこうと思う。
「食べる量のコントロール」という課題は依然として残っている。
満腹すぎる状態でなければいくら食べても大丈夫だと個人的には思うので、「常に腹八分目」で食べるように心がけていきたい。
さて、そんな高度な技術が身に着けられるようになるのか。
これからも自分との闘いは続いていく。