私がしていた貧乏人思考②
おはようございます。
今日は朝起きたら見事な秋晴れで、空気も澄んでいて、とても気持ちが良かったので朝から散歩に出掛けました。
ローソンでコーヒーを買って、近所をブラブラ。
何でもない風景が、朝日を浴びてキラキラしていました。
さて、本題は昨日の続き。
私が陥っていた貧乏人思考その2についてお話したいと思います。
「その1」については昨日の記事を読んでみてください。
その2:効率の悪いことはしたくない
「お金がない…」とちょっと焦りを覚えた私は、まずバイト探しを始めました。
希望条件、それは時給1500円以上。
「少ない時間でなるべくたくさん稼ぎたい!」
というのは誰しもが思うことだから、その条件をあげること自体は良いけれど、
バイトで時給1500円というものは中々ないんですよね。
あったとしてもすごく人気だったり資格が必要だったりして、すんなり決まるということはありません。
そして結局…
私はいまだにバイトが見つかっておりません。。
自分の条件に固執しないで、さくっと時給1000円のバイトでも決めていたとすれば、今頃はそれなりの額を稼げていただろうに…
余裕がある時であれば、自分の求めるものをどこまでも追っても良いかも知れないけれど、今の自分はそんなことをしている場合でもない。
何かをする時、効率の良さというのはとても大事な要素だと思います。
でもそもそも「効率化」をしていく過程において、時間なりお金なりの結構なコストがかかる訳で。
それを度外視して最初から効率の良い方法を見つけようとしても、なかなかそう簡単に見つかるもんじゃない。
逆に「効率の悪い選択」をした方が早く結果が出せる場合もあるんですね。
この言葉が身に染みわたりました。
もう二度とこの精神を手放さないように、これからも生きていきたいと思います。
私がしていた貧乏人思考①
おはようございます。
新しい家に引っ越してきました。
引っ越し先の地域は、幼稚園の時に住んでいた地域なので
「ああ、懐かしい…」と家の周りを歩きながらいちいちノスタルジーな気分に浸っております。
昨日、さっそく近所を散歩して昔住んでいた家の前を通ってみたら
「あれ?こんなに小さかったけ?」とちょっと驚いてしまいました。
記憶の中では、建物も大きくて敷地もだだっ広かったとされていたけれど、大人になってみると案外こぢんまり。
これから先は、懐かしさとともに新たな発見がある毎日になりそうです('ω')
と、前置きはさておき…
わたし今人生最強クラスでお金が無いのですが、まあそれは大して働いていないから当たり前のことなんですけど、
「じゃあ何で働けないんだろう?」
ということを少し考えてみました。
結論としては、色々と私の考え方が間違っていたということ。
無意識レベルで貧乏人でした。
なので今、自分の貧乏人思考を見つけてはひとつずつ軌道修正している最中です。
私を貧乏に追いやった思考はこの3つ。
①自分の時間は自分のためだけに使いたい
②効率の悪いことはしたくない
③自分には何もできない
今日から3日間、ひとつひとつについて詳しく書いてみようと思います。
でさ、さっそく参りましょう~
今日のトピック:①自分の時間は自分のためだけに使いたい
3つの要素の中で、これが一番大きな要因だった気がします。
私は「自分のためにならない」ことをする時間がとても苦痛でした。
以前勤めていた会社でのこと。
その会社は人間関係も良くて、普通の職場にないくらいみんな仲が良い職場でした。
終業後に遊びに行く機会もたくさんあって、映画館に行ったり飲み会を開いたりと、色々な年代の人たちと代わる代わる遊びに行っていました。
当時私は、Youtubeやブログではなくて小説(純文学)を書いていました。
文学賞に応募しようとしていまして…。
今思うと全然向いていないし、なんて的外れな努力をしていたんだろう…と自分で総ツッコミを入れたい気分なのですが、その時は
会社員で終わりたくないし、自分にはもっと違うことができるはずだと思っていたので「何かやらないと」と、焦りがいつもありました。
だからみんなで集まっている時間も全然楽しめない。
せっかく遊んでいるのに、頭の中はいつも
「あー、こんなことしている場合じゃないのにー!」
とカリカリ、イライラ。
だったら行くのをやめれば良いのに、そこまで意志が強かった訳じゃないんですよね。
中途半端な思いで取り組んでいるから、貴重な時間は全部執筆に充てようという気概もない。
自分の活動も、遊びも、全部中途半端。
遊ぶ時は思い切り遊べば良いのに、って今だったら思います。
楽しいことはどんどんやった方が良いのに、
成果を上げることに直結しない時間は無駄な時間
としか思えないアタマをしていました。
今なんか「楽しいことはやらないと罪」って思うレベルなのに。笑
親戚の集まりなんかも「時間の無駄」と思っていました。
一応参加はするんだけど、みんなでごはんを食べている間もずっとソワソワしていて心ここにあらず、みたいな。
その思考の究極形態が、
仕事=時間の無駄
という考え。
たしかにその時間給料は発生しているのだけど、自分の得たい成果を上げるための時間では無かった。
だから、やめたくてやめたくて仕方なかった。
そして辞めてしまった。
どうですか?
そりゃ、お金、無くなりますよね。
お金のための仕事って「自分のやりたいこと」には繋がらないかも知れないけれど、
でも「やらないといけないこと」であるのもまた事実。
だったらその時間、自分の持てる限りの知恵を絞って楽しんでやろうじゃないか!
というのが今の私の考えです。
それに、人の役に立ててるってだけで、けして無駄なことなんて無いんですよね。
そんな風に思考を転換してみました。
今、家庭教師の仕事をしている時なんかも
「どうしたら生徒さんに勉強を楽しんでもらえるだろう?」
と自分なりに考えて、毎回ちょっとずつやり方を変えてみたりしています。
自分も成長するし、相手にも喜んでもらえる。
「人に伝わる物の言い方」とか、結構勉強になるんです。
90分という時間の中で、できるだけ多くの物を生み出してやろう。
そう考えると、ちょっと楽しくなってきます。
まあそんな訳で、時間に対してケチケチモードでいた自分でしたが、そんな自分を少しずつ変えていきたいと思います。
気づいたらドケチなアタシが出ちゃうからね、気をつけないと。
残りの2つについてはまた明日書きたいと思います!
***
さてさて
今日はこれから、区役所に行って、動画編集の案件をやろうと思います。
他にも最近YouTubeも上げられていないし、本の感想の記事も書きたいしでやりたいことがパンパン!
それが「わー、楽しみ!」と思えれば良いのですが、今の心境としては
「どうしよう、時間が全然ないっ」と焦りの気持ちを呼んでしまっています。
「焦らない練習」も必要ですな。
という訳で、今日も1日頑張りましょう~
今日の積み重ね
おはようございます。
今日から11月。
昨日は鼻息の荒い意気込み記事をアップしてしまいましたが、頑張っていきたいと思います!
今日は新しいお家に引っ越しする日。
そして、昨日急に決まったのだけど、今日の夕方から日本語の先生をすることになりました!
2か月くらい前にPreplyという、オンラインで語学レッスンを受けられるサービスに日本語講師として登録しまして。
ずっと何の音沙汰も無かったけれど、なんと急にポン、とレッスンが決まってしまいました…!
外国の人に日本語を教えるなんて初めての経験だからドキドキだけど…
でも楽しみ!
今日やること
・引っ越し
・日本語レッスン
・記事執筆案件の提出
・動画編集案件の提出
という感じのスケジュールですかね。
でも下の2つは「できたら終わらせる」というスタンスで、あまり根詰めすぎずに取り組みたいと思います。
焦らず、楽しみながら。
これはしばらく自分の中の合言葉になりそうです。
(あと「節約」もね。笑)
自分のできることを精いっぱいやりながら、
自分らしく生きられる場所を見つけていきたい。
どんな状況でも、自分のできることをやるしかない
おはようございます。
ハッピーハロウィン。
毎日毎日普通に過ごしているだけでも、やりたいことが次々と頭に浮かんできたりしませんか?
「ちょっと頑張ればできそう!」なものから突拍子もないものまで、色々なこと。
でもどれも、実現したらきっと楽しい。
浮かんでくるのは良いんだけど、形にするのにだって時間はかかるんだから、コンプリートできていないミッションがどんどん頭の中に蓄積していく…
常に交通渋滞で、頭が爆発しそうです。
とりあえず、「次の一手が見えているもの」と、仕事とか頼まれ事なんかの「やらなければいけないこと」に粛々と向き合っていきたい所存でございます。
私の中でスタックしてるプロジェクトは、だいたいこんな感じ。
(今進行中の物)
・おじいちゃんの誕生日にプレゼントする用の物語の執筆
・自分で考えた振り付けのダンス動画の作成
・自分が歌った音源に合わせる動画の作成
(まだ手付かずだけどやりたいこと)
・ダンスの解説動画の作成
・noteに読書感想文を上げる
・noteに物語を上げる
(その他)
・Coconalaというスキルマーケットサイトで受注した執筆や動画編集の案件
プラス仕事もあるし、もう頭がパンクしそう!
でもやらないと…
今絶望的にお金がピンチで、来月以降の支払いに怯えている状況です。
とりあえずバイトにもいくつか応募しているけれど、うまく決まるかどうか…
<自分プロジェクト>も 、自分で「やろう!」と決めて取り組んでいるのに
なんだかやる気が出なかったり、思うように進まなかったりで、焦ったり自分にイライラしたりで余計心が重くなり、それにつられて身体もますます重くなってまた何も手につかなくなる…という負の連鎖に入り込んでしまいます。
今の課題は、そんな自分をどうやってなだめすかし、ミッションコンプリートまでもっていくか。
ただ「根性が足りない!」「意志が弱い!」と自分を叱咤するだけじゃ何も変わらないということはこれまで嫌というほど学んできたので、
いかに楽しく、焦らず腐らず、日々何かを生み出していくか
ということを意識して頑張っていきたいと思います、
やりたいことも、やらなければいけないことも、たくさんありすぎて気づいたら「ウキャー」と奇声を発している。
だけどやっぱり焦りは禁物だよね。
明日からはもう11月。
お金やら仕事やらな、いろいろなことに追われる月になりそうだけど、絶対楽しんでやる!
改めて思うけど、やっぱり何ごとも楽しめる人が人生最強だと思う。
笑えない状況になってしまうかも知れないけれど、無理やりポジティブにするんじゃなくて、心から笑える環境に自分の力で変えていきたい。
ピンチをチャンスに変える意気で、進んで行くでごわすよ。
鬼滅おもしろい(^ω^)
こんにちは。
今さらだけど、世間で巻き起こっている大波に乗ってみようかという気が湧いてきたのでアニメ『鬼滅の刃』を見はじめました。
アマゾンプライムで。
いやぁ、面白いね。
こんなに面白いものだったんだ。
今18話目まで観終わっておりますが、1話からここまでイッキ見でしたよ。
(何時間パソコンの前に張り付いていたんだか…恐ろしい!)
最初の3話くらいは、
「あ~ら、なんて映像が綺麗なのかしら。最近のアニメはすごいわねぇ。うんうん。ストーリは壮大な世界観のバトルものね。主人公の少年が悲しい運命に立ち向かうべく旅にでるのね。それにしても、ヒロインが妹って、ポジション的にかなりオイシイわよね。」
くらいな感じでちょっと引いて見てたんだけど
(やっぱりそこは大人ですからね、中・高生の頃に色々な沼にどっぷりと身を沈めた経験値がありますからね)
最終選別(4~5話)のあたりから、
「うおぅっ!これ、面白いやん!!」
とすっかり釘付けになっておりました。
「最終選別」という、剣士になるための試験のようなものがあるのだけど、
そこに至るまでに支えてくえれたキャラたちの思いを受け止めながら、観ている自分も一緒になって「最終選別を生き残る」という目標を達成したような気になったから、その時に私は炭治郎(主人公)に感情移入してしまった。
LiSAさんの『紅蓮華』も身に染みわたるようになっておりましたわ(*´θ`)
なんか、鬼滅のキャラクターって全員切ないんだよね。
どの作品でも、キャラクター一人ひとり背負っているものがあるし賭けている思いも熱い。
だけど、この作品はみんな悲しい過去とか境遇とかあって、他人を思う心はあるのになかなか報われないって人が多すぎる気がする。
だから視聴者たちはみんなほっとけなくなるんじゃないかなぁ…
まだ途中までしか観ていないけど、ふとそんなことを思ったのでした。
まあ面白いから、みんな観てみて下さいな。
無理にとは言わないけれど。
さて、今日は何話まで観れるかな。
「理想の生活」には、日常のちょっとした動作から
私の理想の生活、それは
絵本に出てくるようなかわいい部屋に住み、何でもないような服もお洒落に着こなし、お金も結構稼いでいて、いつも笑顔で暮らしている。
日々を丁寧に過ごし、身の回りの物を丁寧に扱い、自分の身体をいたわる。
そんな生活。
突然話は変わるが
最近、お風呂に入る前のブラッシングをサボっていた。
お風呂に入る前に髪をブラッシングすると、髪に付いていた埃などが取れて、シャンプーの仕上がりもよくなるらしい。
ということで長年の習慣にしていたのだけど、ここ最近の移動生活でそういった日常の細々としたことがおろそかになっていた。
共用の場だから、バスルームに物を置いておくことはできない。
ズボラな性格ゆえ、ポーチを用意して小物をまとておくなんてこともしないから、シャワーに行くたびに化粧水やらクレンジング、オイル、着替えなんかをバラバラと腕に抱えていく。持ち運びの最中に腕からこぼれることもしょっちゅうあった。しかも両腕に抱えているから拾うのも一苦労。
必要なことだから仕方なくやるけれど、お風呂の支度はプチ面倒な作業になった。
必然的に持ち歩くものは最小限にする。
そんな流れで櫛は、お風呂セットのラインナップから外れていった。
ブラッシングをしないまま髪を洗うのは、自分にとってなんかしっくりこないことだった。
シャワーを当てて濡らした時の髪が絡まる感じとか、洗いあがりもなんだか前よりパサつくような…
でも「まあ、いいか」と受け流した。
違和感よりも櫛を持ち運ぶ面倒の少なさを優先した。
そんなことを続けていたら、次第に朝のヘアセットも適当になり、髪に関する事柄全般にあまり頓着しなくなった。
理想の私から、どんどん遠ざかっていった。
上に描いたような理想の生活を送る私は、当然入浴前のブラッシングも丁寧に行うだろう。
でも私の現状は、かわいいお家にも住んでいないし、お金に関しては困窮状態。
理想とは程遠い環境に身を置いている。
とは言えだ。
お風呂前のブラッシングくらいはできるよね!!
ちなみに、このままじゃいけないのは自分でも分かっていたから
「アパートに引っ越したらやろう!」とは思っていた。
(来月から引っ越すことになっている)
身辺が色々落ち着いたら、前よりもうちょっと良く自分のケアもできるはずだ。
そう思っていた。
でも、ブラッシングくらい、環境に関係なくできるよね!!
頼むよ、自分!
持ち運びが多少面倒でも、そこは省いちゃいけない手間だったであろうし、そうしなくても、少しの工夫でやりたいことを実行するのは可能なはずだった。
例えば風呂場に行く前に部屋で髪を梳かしておくとか。
(書いていて思ったけれど、こんなの「工夫」と呼ぶほどのものでもない…)
目の前の環境にどっぷりつかりすぎていたようだ。
今の自分の何もかもが、理想からかけ離れているように思えていた。
けれど実は、環境に関係なく自分にできることってあるのだ。
こうして書いてみると、ごくごく当たり前なことでしかないように感じられる。
でも客観視できていない「自分にどっぷり漬かった」状態になると、こんな簡単なことさえも見失ってしまうのだ。
思い込みって怖い。
また、理想を手に入れようと頑張ることはもちろん大事だ。
だけど環境がどうであれ、その中で心地よく、気分良く過ごすそうと工夫することも、とてもとても大事なのだと気が付いた。
これから先も、こんな風な「スイッチ」をどんどん発見していけそう。
日常の細々としたことに隠れた、「理想」に近づくためのスイッチを。
見つけたらまた記事にしていきたい。
「食べちゃいけないもの」を食べまくって感じたこと
一昨日のこと。
歌のレコーディングを終えた帰り道、甘い物でも食べようかと思ってDean&Delucaのカフェに立ち寄った。
Dean&Delucaって最高な存在なんだ。
ベーカリーであり、カフェであり、グローサリーでもある。
普通のスーパーでは手に入らないようなちょっと変わった食料品や雑貨がずらっと並んでいるお店で、行くといつも心がワクワクする。
何も買わなくても、そこにあるものを眺めるだけで、自分の日常生活がちょっとオシャレになっていく想像ができる。
カフェも居心地がとても良いし、店舗展開もけっこう進んでいて便利さもあるから、本当に大好き。
という訳で、そんな安定のDean&Delucaで、好きなパンかケーキを選んで食べようと思った。
ベーカリーには「秋の新作」がたくさん並んでいた。
いつも食べている美味しくてかわいいパンたちが、秋仕様で栗やらかぼちゃやらさつまいもなんかで装った日には…!
これは全制覇したくなる。。
さんざん目移りした挙句、今回選んだのは「マロンロール」。
コーヒーも一緒に頼めば、あっという間に優雅なティータイムの出来上がり。
ずっとやりたかった レコーディングを終えた達成感と充実感、それに大好きなカフェで好きなものが食べられるこの幸せ。
噛みしめるように大事に過ごしていった夕方のひとときだった。
実は普段は、小麦も砂糖も極力摂らないようにしている。
2年ほど前、世間で地味に巻き起こっていた「グルテンフリー・ブーム」に乗って小麦を辞めてみたら、見事に体調が良くなった。
その後、色々あって「砂糖抜き」もしてみたら、これもまたびっくりで、声の調子が格段に良くなった。
それ以来、パンもパスタも、お菓子も自分の食生活のラインナップからは消えていった。
だけどこの夏、これまで我慢してきた分が一気に爆発するかのごとくパンもお菓子も食べまくった。(私は自分の中で巻き起こったこの出来事を「ひとりパン祭り」と呼び自分の歴史に刻んでいる)
異常だった。
身体の欲求とは関係のないところで膨らみ続ける欲望。
食べても食べても、お腹いっぱいになっても食べることを辞められなかった。
それまでの自分からしたら、「恐ろしい」と顔に縦線を入れるところだろう。
何しろ一度「砂糖をやめる、小麦をやめる」と決めたらとことん、お土産にもらったちょっとしたクッキーとかさえも口に入れることを拒んでいた。
「これを食べたら自分の身体がおかしくなってしまう」
そんないわれのない恐怖心に支配されていた。
でもこの夏バカみたいに「恐怖の対象」を食べまくったことで、そんなやみくもな恐れというものを抱かなくなった。
そりゃ食べ続けるのはダメだけど、一回や二回食べたくらいで身体がすぐにどうこうなるという訳ではない。
とはいえ実際、この「パン祭り」の最中は歌の練習をしていても声が相当出なくなっていたし、歌っている最中の身体の不快感も半端なかった。
そしてそんな経験をしたから
「うん。やっぱりほどほどにしよう」
と心から思えるようになった。
それに相当の量を食べたからか、ショーケースに並んだ美味しそうなパンの山を見ても理性を失わずに、ちゃんとひとつだけを選ぶことができるようになった。
(パン祭りの最中は一度お店に入ったら、3つも4つも買いこんで一気に食べてしまうのが当たり前だった。)
上の写真のように「お茶の時間に時々」というのが私にとって丁度良い、小麦と砂糖との距離感なのだ。
無理に遠ざける訳でも、無尽蔵にむさぼる訳でもない。
何より、自分の適量だけをきちんと選んで食べられた時は、欲張って買い込んだ時よりも数倍美味しく感じられるし、満足感も高い。気のせいかな?
ある特定のものについて、自分にとって丁度良い付き合いかたを知っておくのは、食べ物だけじゃなくて、人生のあらゆる場面で必要なことなのかも知れない。